鉄道唱歌 奥州・磐城編 第18番 白河の関、そして戊辰戦争の古戦場

鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
白河・会津の地理・歴史などについて、やさしく解説してゆきます!

↓まずは原文から!

秋風吹くとえいじたる
關所せきしょあとのところ
會津あいづの兵を官軍かんぐん
ちし維新いしん古戰場こせんじょう

さらに読みやすく!

秋風吹くと えいじたる
関所せきしょあとは のところ
会津あいづの兵を 官軍かんぐん
ちし維新いしんの 古戦場こせんじょう

さあ、歌ってみよう!

♪あきかぜふーくと えいじたるー
♪せきしょのあとは このところー
♪あいづのへーいを かんぐんのー
♪うーちしいしんの こせんじょう
(東北本線)
宇都宮駅→西那須野駅→那須塩原駅→黒磯駅→黒田原駅→新白河駅→白河駅→泉崎駅→矢吹駅→須賀川駅→郡山駅→日和田駅→本宮駅→二本松駅→安達駅→松川駅→福島駅

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ抜粋

歌詞冒頭のフレーズは、松尾芭蕉のものではない

秋風吹くと詠じたる

新白河駅しんしらかわえき(福島県西白河郡西郷村)の前に松尾芭蕉の銅像があることから、この歌を詠んだのは松尾芭蕉とイメージするかもしれません。
しかし、実は違います

これは、能因法師のういんほうしという、平安時代のお坊さん・歌人が詠んだ歌です。

能因法師と、松尾芭蕉の詩の比較

そして、能因法師は松尾芭蕉に影響を与えた人物であります。

能因法師の歌】

みやこをば
あられとともに
立ちしかど
秋風あきかぜぞ吹く
白河しらかわせき

松尾芭蕉の歌】

心許こころもとなき
日数ひかずかさなるまゝに
白河しらかわせきにかゝりて
旅心たびごころ定まりぬ

この違いを覚えておくとよいでしょう。

「おくのほそ道」で、江戸時代に東北地方を旅した松尾芭蕉

松尾芭蕉まつおばしょうは、江戸時代に東北地方を旅行して回ったことで知られる俳人であり、旅人です。
この東北地方の一連の旅は、

  • おくのほそ道

として広く知られています。

出身地は、現在の三重県伊賀市であり、関西本線・

  • 柘植駅つげえき(三重県伊賀市柘植町)

のある辺りです。


おくのほそ道」の旅は、

  1. まず東京(江戸)の千住大橋せんじゅおおはしからスタートとして、
  2. 日光街道を北上して、
  3. 宇都宮から日光に至ります。
  4. その後さらに北上して、
  5. 那須に寄ったあと、
  6. 後述する「白河の関」を越え、
  7. 福島の飯坂温泉いいざかおんせんなどに寄り、
  8. 宮城県の日本三景・松島まつしまに寄ります。
  9. 松島では、あまりにも景色の美しさに歌を詠むことができなかったとされています。
  10. 宮城県からは西へ山形県の方へ向かい、
  11. 最上川もがみがわに沿って日本海側の酒田さかたへ至り、
  12. さらに北上、
  13. 秋田県の象潟きさかたを旅の最北端として、
  14. その後は日本海沿いに南下し、
  15. 越後(新潟県)の出雲崎いずもざき
  16. 北陸地方(富山県、石川県、福井県)を南下していき、
  17. 近江国おうみのくに(現在の滋賀県)に至ります。
  18. そして岐阜県の大垣おおがきがゴールとなっています。

「白河の関」奥州三大関所の一つ みちのくへの入口

歌詞にある「関所」とは、いわゆる

  • 白河しらかわせき

のことをいい、いわゆる奥州三大関所の一つです。

奥州三大関所

  • 白河しらかわせき
  • 勿来なこそせき
  • 鼠ヶ関ねずがせき

白河しらかわせきは、福島県(陸奥国)と栃木県(下野の国)の県境にある関所のことで、いわゆる内陸部にある関所です。

勿来なこそせきは、福島県(陸奥国)と茨城県(常陸国)の県境にある関所で、いわゆる太平洋側にある関所です。

鼠ヶ関ねずがせきは、新潟県(越後国)と山形県(出羽国)の県境にある関所で、いわゆる日本海側にある関所です。

覚え方としては、

  • 白河の関→内陸部
  • 勿来の関→太平洋側
  • 鼠ヶ関→日本海側

と覚えておけばよいでしょう。


なお、関所せきしょは、昔の日本において、国と国の間を移動する通行人を厳しく制限した場所です。

昔は都道府県ではなく、「~の国」でした。
まさに、現代の我々が外国に移動するイメージでした(※)。

※鉄道も飛行機も高速道路もない大昔は、国と国の移動はそれだけで大変だったのでした。

現在では、外国に入国する際に厳しい入国審査を受けるイメージでしょうか。
犯罪歴がないか、こらから犯罪をやる可能性はないか、危険物などを持ってないかを厳しくチェックされ、通行料を徴収されます。


関所は、国と国の間はもちろん、

といった峠道などの、いわゆる「越えにくい場所」に置かれる傾向にあります


特に箱根の関所などでは、

  • 鉄砲でっぽう出女でおんな

といって、江戸に鉄砲などの武器が入ってこないように幕府が厳しくチェックしました。

また、参勤交代の制度によって大名は江戸に妻を人質に取られているため、妻が江戸から出て(逃げて)いくのを防ぐために、関所を通る女性も厳しくチェックされました。

戊辰戦争の重大な局面・戦場となった、白河

そして、白河はいわゆる戊辰戦争ぼしんせんそうの舞台として、重要な局面であった場所です。

戊辰戦争ぼしんせんそうは、幕末に起こった旧幕府軍と新政府軍との戦いです。
1868年に京都で起こった「鳥羽・伏見の戦い」から始まりました。

江戸幕府15代将軍であった徳川慶喜とくがわよしのぶは、大政奉還たいせいほうかんといって、政権を朝廷に還すこととなりました。


しかし、一部の誇り高き武士たちとしては、戦わずして朝廷に政権を還してしまったことになり、これでは武士のプライドはズタボロとなってしまいました。

これに納得いかない武士たち(旧幕府軍)は、新政府軍に対して徹底抗戦します。


しかし、近代的な武器を装備した新政府軍が優勢であり、旧幕府軍はどんどん北へ追いやられていきます。

そして、白河を舞台とした

  • 白河口の戦い

では、南側から攻めてくる新政府軍に白河小峰城しらかわこみねじょうを占領されてしまいます。
やがて旧幕府軍は、さらに北へ逃げざるを得なくなってしまいます。

なぜなら、白河を攻略されると、新政府軍はここを拠点としてさらに北へ、また西の会津あいづ方面へ攻撃できてしまうからです。

同じく戊辰戦争での重要な戦場となった、会津若松

その後に起きた「会津戦争あいづせんそう」では、

  • 会津若松城(鶴ヶ城)

に立て籠もる旧幕府軍に対して連日のように攻撃・砲撃がなされ、籠城に耐えきれなくなった城の人々は次々に倒れていきました。

約20日~30日にも及ぶ会津若松城への攻撃で、ついに旧幕府軍(会津藩)は降参してしまったのでした。
さらに、会津若松城の東にある「飯盛山いいもりやま」という山で、「白虎隊びゃっこたい」とよばれる少年兵たちが次々に自害していきました(白虎隊の悲劇)。

鶴ヶ城(福島県会津若松市)

鶴ヶ城(福島県会津若松市)

会津の戦いのその後、戦いの舞台はさらに北へ移ってゆくことになります。東北地方の、旧幕府軍側の藩で結成した

  • 奥羽越列藩同盟おううえつれっぱんどうめい

も新政府軍の前にことごとく敗退し、または新政府軍に寝返るなどし、同盟は敗北てしまいます。


北へ北へ追いやられ、ついには北海道の箱館はこだてにて最終決戦を迎えたのでした。

そして、最後まで新政府軍に抵抗した、土方歳三ひじかたとしぞう率いる新選組しんせんぐみも、箱館の五稜郭ごりょうかくにて降伏となったのでした。
やがて、戊辰戦争は終結、新政府軍(官軍)の勝利と旧幕府軍の敗北に終わり、明治維新めいじいしんの時代に入っていくわけです。


白河は、こうした一連の戊辰戦争の一つの局面として、重要な場所(古戦場)であったといえます。

白河を出発し、郡山方面へ

次は、白河を出発して郡山こおりやま方面へ向かいます!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。
そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。
再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。
何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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